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義経に会える仙人堂

平成6年2月に発見された源義経の書状(腰越状)の内容

私は兄頼朝の代官として、朝敵を平らげ、源氏年来の恥をそそぎました。ほめられるべきなのに、どうしたことかとがめられています。
私が朝廷から五位尉(ごいのじょう)に任ぜられるまでになったのは、源氏にとっても名誉ではないでしょうか。
命をかけて平氏を追討したのに、こんなことになってただなげくばかりです。あなたのお力でなにとぞ兄にわが心のうちをお伝え下さい。

京の公家、大江広元にあてた手紙である。
義経が兄頼朝と一番の不仲の大きな原因になったのは、元暦元年(げんりゃくがんねん)、後白河法皇から検非違使尉(けびいしのじょう)を受けてからである。

源義経・常陸坊海尊像のやまと絵の発見は何を意味するのか

源義経
常陸坊海尊
平安時代は高貴の人の姿をあまり写し描くのは失礼だという考え方から肖像画は普及していなかった。

しかし、絵画としての大きな位置づけをした鎌倉時代のやまと絵という似絵(にせえ)は崇拝の対象として正装で威儀をつくった晴の姿の肖像であったと思われる。中国唐代の肖像画の伝統をついで荘重で静止的なものであったと推定できる。

こうした背景を考えると発見された義経たちのこうした肖像画はまさに鎌倉時代の似絵を象徴しているといっても過言ではないだろう。

最上川のほとりで発見された通貨が義経から平清盛の日宋貿易までタイムスリップさせる

発見された通貨の実物はなかなか見ることができないと言う。また、「鎌倉時代に通貨は使われていたのか」とよく聞かれると言う。そのことからみても最初の通貨の使用に関心があるからだと思われる。

当時、通貨をつくる技術は日本ではあまり発達していなく、中国から輸入され、それが鎌倉時代にかなり流通していた。発見された6点の通貨の内、その一点は、1161年から1189年の「大定通寳」でまさに義経と兄頼朝との不仲が決定的となった1184年元暦元年から義経が平泉の近くの衣川-ころもがわ-で自害する1189年文治5年の中にあり、書状とやまと絵が一緒に発見されたこの通貨からも新しい歴史ロマンが生まれようとしている。

源義経公東下り絵巻中十八段の最上川の場面

-義経、芭蕉も上陸した仙人堂から見る風景はまさにロマンいっぱい-

この絵巻には、義経のみやこ落ちの絵が21枚描かれている。

そのうちの1枚(18場面)は、義経が最上川に流れる沢の中の鵜をみている絵である。この絵巻は平泉中尊寺大長寿院に蔵されているもので、特別に許可をいただき複製したものである。

絵の中に次の様に最上川のことが書かれている。

・・・・・ほどなく最上川のほとりを去らせ給いけり。かの最上川のほとりに奇異なる石あり。その石の上に鵜といふ鳥あまたに遊びけり。御台所御覧じて一首遊ばしけり。
最上川 いかなる神の 誓ひにや
 浮いたる石の 流ざるらん
古歌にいはく。最上川上れば下る稲舟の稲にはあらずこの月ばかりと侍るを思い出させ御心に思召す様は憐れ憐れ。願わくば下れば上るにとなさばやとぞ思いつつけさせ給う。



絵に描かれている沢は、仙人堂真向いの国道47号線下にある有田沢である。舟運時代の古絵図にはウドサハと記されている。昔は鵜止沢と呼ばれていた。
また、最上川という文学が最初に文字に表われた古今和歌集巻20の読人不知の歌「最上川 のぼればくだる稲舟の 稲にはあらず この月ばかり」は、この絵の中で紹介されている。従って、この歌も仙人堂からみた風景を詠んだと思われる。

このような解明がまた新しいロマンを誕生させる。